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1932 フォード・デュース・クーペ('32 Ford Deuce Coupe)

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Table of Contents

概要

1932 DEUCE COUPE

ホットロッドを連想した時に真っ先に思い浮び、ホットロッドを語る時に必ず例えられるほど世界一有名なホットロッド、通称Milner's Coupe(もちろんジョン・ミルナーが乗っていたという意味)で、“Graffiti Coupe”、“Yellow Coupe”などとも呼ばれています。このクルマの正体は1932年に生産されたフォードモデルB(B型フォード)クーペ 5ウィンドウの映画用に製作された改造車です。「デュース」という名は'32年型のフォード車全般を指す愛称で正式名称ではありません。また、劇中ボブ・ファルファが「デュースクープ」と発音する事から、そう呼ばれる事もあります。尚、“デュース・クーペ”と区切って表記すべきでしょうが、当サイトではつなげて表記しています。

1932 DEUCE COUPE

アメリカン・グラフィティ』の背景は、ゴールデンエイジと称される1950年代(50's=フィフティーズ)文化のエピローグであり、当時の一部の若者達が好んだホップアップ(=チューニング)されたホットロッドを登場させる事は、同時期に青春時代を過ごしたジョージ・ルーカスにとって不可欠な存在だったようで、中でもベース車両にデュースを起用する事は構想段階から決まっていたと言われるほど思い入れがあったようです。

改造

JFK FLASHER
1932 DEUCE COUPE

ライセンスプレートのナンバー「THX 138」はルーカスの処女作『THX 1138(THX-1138)』(1971)からというのは有名な話で、インテリアには違反切符を入れるC.S.(チキンシット)がドアの内側に、キャロルにプレゼントしたシフトノブには小さなピストンが使われ、ルームミラーに釣り下げたブルーリボンについているのは、1960年のジョン・F・ケネディの大統領選キャンペーンボタン(缶バッチ)。

尚、劇中ガレージから爆音を轟かせて出てきたデュースに乗るミルナーに対し、ガソリンスタンドマンが“Took header plugs of??”(DVDでは「手を入れたな?」と翻訳)と問いかけるシーンがあり、へダース(=タコ足/エキゾーストマニホールド)についているプラグ(蓋)を取ったであろう事を想像させますが、このデュースクーペのへダースはマフラーへ直結しています。また、パラダイスロードのシーンでは、リアから排気している事が伺えます。

1932 DEUCE COUPE

ジョージ・ルーカス及び共同プロデューサーのゲイリー・カーツはフルフェンダーや赤いボディのデュースクーペも候補に挙げていたそうですが、最終的にすでにルーフが2.5インチ、チョップされていた事が決め手だったそうで、$1,300でこの車体を購入。当初は紅白のタックアンドロールのインテリアだったそうです。そして、トランスポーテーション・スーパーバイザーのヘンリー・トラバースが改造に関する指揮を取る事になり、イグナシオのボブ・ハミルトンのショップに持ち込まれ様々なカスタムが施されました。 ルーカスの希望でハイボーイスタイルに、リアには叩き出しのボブフェンダーを装着する事になりました。フロントフェンダーはモーターサイクル用を流用し、ヘッドライトはアルミのステーにマウントされ、ドロップアイビームはクローム加工されました。グリル及びシェルもセクショニングされているのが特徴です。

1932 DEUCE COUPE

剥き出しのエンジンは1966年のシェビー(=シボレー)インパラのスモールブロック327、MAN-A-FREインテークマニホールドとロチェスター2G2バレル4キャブ(=キャブレター)というレアなパーツの選択がこのホットロッドの象徴となりました。ジョニー・フランクリンズのへダース&マフラー、トランスミッションはT-10型4速、ギヤ比は4.11:1、リアエンドは1957年のシェビーを流用。サン・ラファエルのOrlandi'sでションベン色(カナリアイエロー)にペイントされました。クライマックスのパラダイスロードでのアタックは、念の為トラバースがドライブしたとの事です。

参照

http://www.streetrodderweb.com/milestones/0102sr_36miles/

撮影後

このように、劇中車として制作されたMilner's Coupeは、ホットロッド専門誌“ストリートロッダー・マガジン”(1974年3月号)にて紹介されています。»(参照)

1台のクルマにさえこれほどディテールにこだわった映画でありながら、ユニバーサルからは「失敗作」という早期判断が下され、その穴埋めとしてトラバースはMilner's Coupeの売却を命じられましたが(»参照(オークション広告))、買い手がつかなかったと言われています。

1932 DEUCE COUPE

しかし映画は予想外の大ヒットとなり、ユニバーサルは再びトラバースにスタジオへの返却を命じる事となります。そして続編の『アメリカン・グラフィティ2』製作までの6年間、Milner's Coupeはユニバーサルにディスプレイされる事となりました。

1979年の『アメリカン・グラフィティ2』製作の為に、デュースクーペの準備の仕事を与えられたのはもちろんトラバースでした。レストア及びリペイント(グリルは黒に)が施され、ドアにピープミラーが装着された点が特徴でしょうか?(但しミラーに関しては1作目公開後には公道で走る際などに装着していた事が確認されています。»(参照)

↑『アメリカン・グラフィティ2』公開後、再び2年間スタジオにディスプレイされましたが、数々のパーツが盗まれました。バルブカバー、キャブ、エアスクープ、内ドアハンドル等など。

そして劇中ライバル車'55シェビーを所有していたカンザス州ウィチタに住むスティーブ・フィッチ氏の手に渡る事となりました。

参照

http://jeffsallgraffitiallthetime.blogspot.com/2012/02/season-of-fitch-american-graffiti-cars.html

http://www.projectthx138.com/Update%20092209.html

1932 DEUCE COUPE

やがて多くの電話と訪問責めに妥協し手放す事となります。相手はサンフランシスコに在住のリック・フィガリ氏でした。この時リック氏は弱冠20歳、1985年の事でした。当時は野ざらしに近い状態で保管されていた為、ボディも相当痛んでいたようです。その後20年以上、レストアを施しながら現在もリック氏はこのデュースクーペを大切にしていて、数々のホットロッド・ショーにエントリーしています。

参照

http://unofficialamericangraffiti.weebly.com/the-1932-ford.html

そうです、スクリーンを駆けたMilner's Coupeは現存するのです。ユニバーサルスタジオのメルズ・ドライブインにディスプレイされているデュースクーペやカーショウ等で見かける黄色いデュースクーペは、このクルマをモチーフに製作されたものなのです。

カスタムパーツ資料

トランスポーテーション・スーパーバイザーのヘンリー・トラバースが1962年当時のカスタムを施すにあたり、参考にしたであろう資料を紐解きます。

Valve Coverバルブカバー:撮影当初はデュースのモーターはシェビー283だったという噂がある。(»参照) 事実であれば、このような当時物のフィンタイプのバルブカバーの広告も参考にしたであろう事が想像できる。尚、前項で触れたようにオリジナル(劇中車装着)のバルブカバーはユニバーサル展示中に盗まれている。Chrome Wheelsホイール:デュース同様、'58インパラ'55シェビーにもクロームホイールが装着された。
Piston Gearshift Knobピストン ギアシフト ノブ:プラスチックのブッシュをはめてネジ止めするだけのアクセサリー。キャロルでも着脱し易いよう撮影時はネジを緩めていたであろうと思われる。Air Creanerエアクリーナー:今も昔もホットロッド定番のエアスクープ。
  • HOT ROD MAGAZINEより
    Man-A-Freインテークマニホールド:現在ではビンテージパーツとして非常に高価な1961年モデルのMan-A-Freの広告。Steering Wheelsステアリング・ホイール:劇中車は皆GRANT 502らしきハンドルが装着されているが、GRANT社がこのタイプを発表したのは1962年の事。それ以前にMOON Equippedが同様のモデルをリリースしている点から、見解が分かれるところだ。

他作品にも登場

参照

http://jeffsallgraffitiallthetime.blogspot.com/2012/02/american-graffiti-coupe-will-work-for.html

  • 1976年11月20日にオンエアされた“During Season Six Episode Eight”でスリックタイヤを交換するMilner's Coupeがバックグラウンドに使用されたそうです。
参照

http://jeffsallgraffitiallthetime.blogspot.com/2012/02/emergency-milner-coupe-has-flat.html

来日

1932 DEUCE COUPE

2009年12月、このMilner's Coupeはカーショーに展示されるために日本に初上陸しました。

こちらのページをご覧ください。(動画や細部の詳細画像もあります)

オリジナル

1932 DEUCE COUPE

1932年に登場したフォード・モデルB・クーペのストック状態の姿。脱着可能なフェンダーやフードを身にまとえば、クラシックカー然としたフォルムをしています。フォード初のV8エンジン搭載車でもありました。モデルAの後継モデルのため、モデルBは「DEUCE」(ダイスやトランプの2の意味)と呼ばれ、クーペタイプは3ウィンドウ、5ウィンドウがあり、他にも様々なボディタイプがラインナップされましたが、翌年にはモデルチェンジされる為、わずか1年間のみの生産に終わっています。

デュースの歴史

Rockabilly Magazine VOL.8』(2007年12月30日発売)に管理人MALが執筆した記事、GREASER GARAGEからの転載です。デュースの歴史を解説していますので、興味のある方はご覧ください。

DEUCE DAY

Nitro Burnin' Funny Daddy - Brian SetzerBrian Setzerクレジットのアルバム“Nitro Burnin' Funny Daddy”のジャケ写や、B.S.Oの"Gettin' In The Mood"のPVにも登場する彼の愛車である1932年式B型フォード。今は亡きDanny Gattonもアルバム"Cruisin' Deuces"を残したほど、このクルマを愛したミュージシャンの一人でした。

アメリカの自動車史を紐解くと各メーカーの熾烈な争いを垣間見る事ができます。その渦中で時代に淘汰され人々の記憶から薄れゆく中、若者達による新たな価値観が注がれたアンチテーゼが存在した事を今回はお話ししましょう。

大衆車頂上決戦

大量生産を可能にし、T型フォードを1,500万台もセールスしたフォード社ではありましたが、王座に甘んじ改良を疎かにした結果、1926年には性能とデザインに優れたGM社シボレーにベストセラーの座を奪われ、後継モデルの開発を余儀なくされます。

FORD MODEL A

こうして、後にフォードのデザインを担う事になるヘンリー・フォードの長男エドセルの発案によるモダンなスタイリングと、現代の自動車の原型とも言える基本装備を与えられたモデルA(A型フォード)が生産ラインに載せられたのです。

1927年12月、モデルA('28年型)のデビューはビッグニュースとなりました。販売台数もシボレーを抜き「フォード=大衆車」のポジションの挽回を果たします。しかしそれも束の間の事でした。翌年には大恐慌が世界中を震撼させます。当然のように自動車の需要は収縮しました。しかし、限られた大衆の購買意欲を惹きつけるべく、シボレーは'29年に直6エンジンを搭載し、モデルAよりもワンランク上の「ゆとり」を提供したのです。

統計上こそ500万台ものセールスを記録したモデルAですが、'31年1月には価格を下げざるを得ないほど、移り気の早い大衆の欲求には応えられない存在にまで堕ちていました。また、フォードは、かつて買収までして得た「リンカーン」というフラッグシップモデルを有するメーカーでしたが、主力は大衆車というギャップに頭痛を抱えていた上に、このダメージが後も尾を引く事になります。以後フォードの歴史は、常にGM勢のイニシアティブの前に後塵を拝する立場になるのでした。

デュースの登場と勝敗

1932 FORD

こうした屈辱的背景と大衆心理に背中を押されるように誕生したのがモデルBでした。発表は1932年3月9日の事、日本では昭和7年。満州国が建国された、などという気の遠くなるような昔話です。

モデルAの後継車「B」の為、“Deuce of Spades”(スペードの2)などと言われるように、いつしか「2番」を意味する「デュース」という愛称で親しまれたクルマであり、リンカーンに通じる手頃なラグジュアリー感を兼ね備えていた事から「ベビーリンカーン」とも呼ばれました。

1932 FORD

1930年代からの都市道路の急速な舗装化に伴い、フォードはライバル社との差別化を図るべく、デュースの開発に於いてはイージードライブの向上に努めました。同社初のワンピース鋳造V8ブロックのフラットヘッドエンジンを奢り、パワフルになった動力を支える為にフレームレールを視覚的にも美しくウェーブさせて捻り剛性の向上も図りました。

1932 FORD

後にも先にもフレームの側面をボディの一部であるかのように露出させたフォード車はデュースだけであり、フェンダーレスのハイボーイという仕様のデュース特有の定番ホットロッドスタイル然り、この特徴を生かす事も後に産声を上げるカスタムのキーポイントになりました。

そう、他の年式のカスタムとは違い、チャネリングをあえて施さない事が、このデュースボーンへの敬意でもあるのです。(Brian Setzerは潔くチャネルしていますが・・・)

1932 FORD

さて、このようにフォードの最新テクノロジーを大衆車にフィーチャーしたデュースでしたが、わずか1年という短命、30万台にも満たない(累計276,906台)生産台数でカタログから姿を消し、次期モデルへとバトンを渡します。

その理由として、やはり大恐慌が挙げられます。ピークは1932年末から1933年春まででしたが、需要の収縮とは裏腹に大衆が求めたものは高級感でした。結果、デュースよりも豪華なインテリアと品格のあるスタイリングを持ち合わせた、「ベビーキャデラック」とも呼ばれたシボレーに軍配が上がるという皮肉な結果をもたらしたのです。

1932 FORD

加えて、後にエアフローを輩出するクライスラー社が、この時すでに風洞実験に基づいた空力デザインを採用し、その流麗かつ艶やかなフォルムがアメリカ車のデザインに変化をもたらした事が挙げられます。意匠勝負こそがマーケットの鍵を握る、そんな時代の幕開けと丁度重なったのでした。当然フォード車も'33年以降はエアロダイナミックを装ったモデルチェンジを毎年重ね、ニーズに応えるがままストリームラインへとエクステリアの変貌を遂げます。

こうした結果、良質の中古車も毎年市場に溢れ、新車の販売台数の頭打ちを危惧したメーカーとディーラーは結託し、1937年から数年間、中古車を市場から排除すべく大がかりなスクラップ化運動を遂行してしまいます。しかし、これによって新たな価値観も芽生えました。中古パーツ市場然り、それらを寄せ集めカスタマイズする輩など、ホットロッド&カスタムカーカルチャーの夜明けとなったのです。

蘇生が伝説のプロローグ

HOT ROD MAGAZINE 1948年2月号・12月号

かくしてデュースは、非凡な能力を持ち合わせながら出尻ゆえに時代に見放された犠牲者(車)となりました。
しかし20年近くの時を経たWW2後のレイト40's、若者達によって掘り起こされたそれは、ジャンクヤードの宝石となったのです。

誕生から75年。数々のレースでの戦歴を刻み、また伝説のショーカーのベース車両となり、Beach Boysによってその名を広められ、そして『アメリカン・グラフィティ』を筆頭にスクリーンに於いても異彩を放つ、今やホットロッドの代名詞とまで崇められるデュース。

最後の無骨なルックスと最初のV8の鼓動を宿したこの特別な1台に思いを馳せる人々は世界中で後を絶ちません。生まれながら背負った十字架と、その後の生い立ちに駆り立てられるものはいったい何でしょう?

それはデュースこそホットロッドヒストリーそのものだからに違いありません。何故なら、フラッティーを蘇らせ、より速く走らせる為に生まれた文化なのだから。。

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参考

英文サイト
STREET RODDER MAGAZINE

Project THX138

Kathy Schrock’s “Unofficial American Graffiti”

KIP'S AMERICAN GRAFFITI BLOG

Jeff's All Graffiti All The Time

Petaluma CA Salute to American Graffiti


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Last-modified: 2012-12-20 (木) 05:58:25